常在寺の歴史

井伊家の領地にあって

イメージ

常在寺には、「宝樹院殿妙常日義大姉・大永十三年(一五二三)末四月十三日」と刻まれた常盤御前の墓があります。当山の山号「宝樹山」は常盤御前の法号「宝樹院殿日義大姉」に因んでいます。

常在寺の古くからの檀家には、吉良家の遺臣、石綿・田中・松原といった名前がいくつか見られます。松原氏の子孫は各宗、各寺に檀那寺をもちましたが、このうち常在寺の檀家となったものは次のように言い伝えています。「常盤御前やその父母出羽守が法華経信者なので、常在寺ができてから吉良家臣で改宗するものが多く、とくに松原のうち常盤と関係の深い一党は常在寺檀家となった」

開創から一五〇〇年代まで、常在寺は順風の中にあったようですが、やがて江戸時代に入ると上からの思わぬ圧力がかかりました。

寛永十年(一六三三)以降、近世を通じて、世田谷地方の中心部には、近江国彦根藩主の井伊氏の領地が存在していました。井伊氏といえば、徳川政権における譜代大名の筆頭として君臨した家です。

この井伊家は、日蓮宗を嫌い、領民をことごとく他宗に改宗させました。不運にも常在寺は井伊家の領地内にありました。居村には一軒の檀家もなく、これは明治時代まで続きました。当時、常在寺の檀家が多数いたのは、みな井伊領ではない経堂や上馬、若林でした。

しかし、寺と檀家の結び付きは非常に強いものでした。江戸時代においては寺院は、各家の信仰管理をつかさどり、寺社奉行の下で、その証明権限を持っていました。寺院の存在がいかに民にとって大事あったか、宝永四年(一七〇七)の日付がみられる常在寺の「宗旨証文乃事」を見てみましょう。

宗旨証文乃事

一此度玄叔同女房子ニ大助以上三人、代々法花ニ而、拙僧旦那に紛無御座候。若指令より御法度乃宗門共申者、於これ有二ハ、何方え茂、拙僧罷出、急度申分ケ可仕候。為後日宗旨証文仍而如件

宝永四丁亥四月 日

甲州身延久遠寺末弦巻村常在寺

船橋名主 半右衛門殿

(船橋鈴木鎮雄家文書)

宛て名にある主の家が代々日蓮宗を信奉していることを証明するものです。もし、御法度の宗教であると疑いをかけられることがあれば、住職が釈明する、との内容です。 当時はキリシタンが禁制とされていましたから、こうした庇護を受ける面でもお寺は壇家にとって頼るべき存在であったのです。

また、常盤御前の鬼子母神像に縁ある境内の井戸には病治癒を願う人びとが集まりました。

十二世住職日妙聖人(明和六年=一七六九入滅)によって作られたと思われる木版印刷『鬼子母善神由来』には次のようなことが書かれています。

常盤御前が御身の守り本尊を井戸に投げ入れて立ち去ってから、御像は長い間水底に沈み、毎夜光を放っていました。大永五年(一五二五)九月十日のこと、日純聖人は不思議な霊夢を見て、御像を引き揚げました。そして数日間読経を行い、これを御腹籠として奉安しました。すると、この井戸水は霊験を現し、火傷に注げばたちどころに疝痛を去らせ、また諸病に苦しむ人がこの霊水を服薬すれば必ず効能があったといいます。

中興の祖日妙聖人

イメージ

右の霊験譚から約二百年後の日妙聖人の代に、一つの石に一字の経文を書いて井戸に沈めたところ、それからますます霊水の利益をこうむる人が増えたとのことです。

日妙聖人は過去帳によると「中興開基諸堂建主」とされ、当山の中興の祖というべき方です。寺の古い棟札にも、日妙聖人が住職にあった延享三年(一七四六)に旧本堂が建てられたことが記されています。

さて、第二十世の住職日勇聖人の代と考えられる文政十一年(一八二八)に、武蔵国の地理・歴史について詳説した『武蔵風土記』が成立し、常在寺も取り上げられました。その項を見ると、次のことが書かれています。

「弦巻村常在寺。除地一町二反。小名向にあり。法華宗 甲斐国久遠寺末、宝樹山と号す。当時の過去帳に開山仲門善院日純聖人、享禄元年七月九日寂す。開基は大平出羽守が女吉良氏の室法諡宝樹院妙常日義大姉大永三年四月十三日卒と見ゆ。門(中略)両柱の間九尺、宝樹山六酔と云を扁す。門の左に三十番神堂あり、九尺四方、本堂七間に六間、三宝祖師を安ぜり」

さらに、幕末に近づいた安政年間(一八五四〜六〇)の頃のこと。歴代の住職は常在寺を親しみやすい、心の洗われるようなお寺にしようと心掛け、戒律をよく尊びましたが、このお話の住職も徹底したものです。

夏の朝早く、墓参りに行き庫裡を訪れたある檀家は不思議な光景を目にしました。住職(二十四世日晴聖人と思われます)が敷布団の上を扇でさかんにあおいでいるのです。「何をして居なさるのか」と尋ねたところ、「蚤がうんとといるが、が、つぶすと殺生だから追い出しているのじゃ」との返事。この住職は檀家一軒一軒に過去帳を新調させ、序文とその家の祖先の戒名を書いて、檀家の日々の勤行が促進されるようにしたと伝えられています。

堀之内妙法寺との縁

イメージ

当山は杉並の堀之内妙法寺と少なからぬ縁があり、明治時代に入ると過去帳にその寺名が幾度か見られます。妙法寺は元和年間(一六一五〜二三)、真言宗の尼寺から日蓮宗へ転宗した、身延山久遠寺直末の名刹です。十八世紀初めから厄除け祖師の名で江戸庶民の間に喧伝された歴史をもちます。

まず、二十五世日浄聖人(明治十三年〈一八八〇〉入滅)が、当山での勤めののち妙法寺に入りました。その後も、三十二世日正聖人(昭和三十二年〈一九五七〉入滅)が昭和六年(〈一九三二〉)、妙法寺に入山しました。

また、三十三世日澍聖人(昭和四十九年〈一九七四〉入滅)は、当山に入る前の若い頃に、妙法寺の執事をしていました。この日澍聖人は、昭和二十八年(〈一九五三〉)につるまき幼稚園を設立し、初代園長になったことでも知られております。

寺院概要

Outline

世田谷の地に五百余年。花と緑と水の寺として周辺の住民の皆様に親しまれております。

名称 寶樹山 常在寺
創建 1506年/永正三年
開祖 忠善院日純聖人
宗派 日蓮宗
住職 駒野教晴
住所 東京都世田谷区弦巻1-34-17
電話番号 03-3429-1831